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「公害知事さん、さようなら。憲法知事さん、こんにちは」

 「公害知事さん、さようなら。憲法知事さん、こんにちは」を合言葉に黒田革新府政が誕生した日から2週間経過した1971年4月25日。
 榎原一夫46,838票、山本治雄45,349票、小山源三13,761票…。この日開票された吹田市長選挙は、社共統一候補・「明るい革新吹田市政をつくる会」推薦の衛都連委員長・榎原一夫氏の当選を告げていました。

 1940年に誕生した吹田市は、50年代後半からの高度経済成長の波に乗り、当時東洋一といわれた千里ニュータウンの建設や万国博覧会の開催により、人口が急激に増加していくものの、市政発足以来の保守市政は、その人口に見合った行政施策を十分打ち出さず、自民党府政言いなりの歳月の流れを積み重ねていきました。

 10月には、吹田保育運動連絡会が、先ほどの「散れ!散れ!」発言市長を批判したビラを街頭で3万枚配布し、市民への訴えを広げ、翌年1月には第1回保育要求集会を成功させ、「私たちの要求を実現してくれる市長を選ぼう」と革新市政実現に向けての狼煙を上げたのでした。

 このような市民の声の高まりの中、広範な市民が白羽の矢を立てたのが、吹田市役所で長年労働組合運動に携わってこられた、吹田市労連委員長で衛都連委員長でもあった榎原一夫さんでした。
 それから5期20年市民本位の多くの業績をつみ重ねた榎原市政は今日の吹田市民の自治意識の高揚のために、さまざまな市民が集える各種センターや女性が働きつづけられるための保育所の充実に大きな役割を果たしました。

市民本位の市政誕生

 初登庁した榎原さんは「市民のいのちとくらしを守り、市民本位の住み良いまちづくりを」と訴えていました。これは当時の市政の4つの基本目標の一つめです。
 この「いのちとくらしを守る」という表現に、私たちは新鮮で、また切実な響きを感じたものでした。しかし、その矢先、法治国家であるにも拘わらず到底信じられないような出来事が起こりました。
 なんと初議会を迎えた6月7日、600人もの部落解放同盟大阪府連の動員部隊が市役所を占拠し、榎原市長を監禁しただけでなく、職員に対しても恫喝・罵声を浴びせるといった暴挙を引き起こしました。
 同和問題の窓口一本化を求める、数を頼んでの暴挙に対し、榎原市長を支える民主勢力はすぐさま市民集会を開催。暴力に屈せず頑張る榎原市長を激励しました。
 この頃からの、公正・民主の同和行政目指した榎原さんと民主勢力の運動は「差別糾弾路線」など数々の困難を乗り越え、今や同和行政の終結が現実の課題となっていることに行政の主体性を貫くことの大切さを思わざるを得ません。

日本初、65才以上の老人医療費無料化制度開始

 そして、翌年1月には日本の政治史上始まって以来の画期的な施策がスタートします。全国に先駆けて、65歳以上の老人医療費無料化制度が始まったのです。
 当時、国においてはもちろんのこと、府県レベル、市町村レベルで老人医療費を無料化している自治体は、どこにもありませんでした。
 榎原革新市政のこの施策が、その後の黒田府政を皮切りに全国に広がり、ついに国も追随せざるを得ない状況を作り出したのです。
 榎原市政は、直接的な住民サービスだけでなく、行政理念においても従来の市政を大きく越えていました。「憲法をくらしにいかす」という視点を行政の基本に据えるだけでなく、市民にも日本国憲法の理念を広く知らしめたことです。「憲法読本」が全世帯に配布され、市民にとっても「憲法」が身近なものとなっていきました。
 また、市民に対しては「地方自治体は住民のくらしを守る自治組織」であるが、その行政は、「単にいわゆる善政、あるいは恩恵ということにとどまってはならない」のであって、「市民の地方自治に対する政治的自覚をいかに高めていくかということが最も大事」であるとの考え方を示し、「住民の意思、住民の運動、そういうものに依拠しながら」「本当に地方自治体が真に住民自治の場として、十分その効果を発揮できるような自治体にしていく」ことが必要であるとの考え方を議会で表明しています。
 住民と行政をつなぐための、地区公聴会制度や市役所への広報公聴課設置は、住民自治の前進に大きく寄与していきました。

公害、環境問題を大きく前進

 ゴミの処分については、今でも大きな行政課題となっています。高度経済成長を迎える頃から、ゴミの排出量は急激に増加していきますが、保守市政時代は十分な対応がとれていませんでした。革新市政になり、燃えるゴミの週2回の収集、燃えないゴミの月2回収集へと発展し、住民要求に応えていきます。

 真っ黒な神崎川、異様な臭い、公害喘息患者の増大…当時の吹田市南部方面は水質汚染、大気汚染など公害垂れ流し状態でした。「公害の防止を徹底する」ことをひとつの柱に掲げた榎原市政は、公害苦情処理体制の充実を図るとともに、市内の事業所の一斉立ち入り検査の実施、公害発生源の規制の為の定期的立ち入り検査など数々の施策を打ち出し、公害発生企業と付近住民との間に「公害防止協定」の締結を指導・緩和するという住民運動と一体化した公害行政を進めていきました。

 こうして、息つく暇もなく、公約実行に向け邁進する榎原市長ですが、不当に低い交付税、国庫支出金という状況と、歴代保守市政によってゆがめられた財政構造の中、財政収入は限られ、さらには、その収入さえも借入金が大半を占めるという状況でのバトンタッチでした。
 榎原市政は、このような財政状況を少しでも好転させるために自主財源を確保するためにチエを絞りました。
 個人市民税の額よりも少ない、大企業などの法人市民税納付に対し、最高税率まで引き上げたり、市内進出の宅地業者へは教育施設費用の負担を義務づけるなど、あらゆる手段方法に検討を加え、自主財源を確保していくのでした。

 このような施策展開の中で、当時いずれも自治体も考えつかなかった、画期的な財源があります。それは、吹田市内を横断するだけでなく、大きなスペースを占めている名神高速道路に対しての固定資産税課税というものでした。
 道路公団は、営利団体でないことから、もともと非課税団体でしたが、10年経過しても無料になるどころか、料金引き上げを行い、次々に新しい高速道路を建設し始めるという状況に変わってきていました
 実体として公団は、高速料金で利益を上げていることになるので、これは本来の公共道路非課税とは区別されるべきではないか、との考え方から、公団に対し固定資産税課税を宣言しました。
 そして、全国の高速道路通過自治体にも呼びかけ、課税できるよう運動を興したのです。これには、国も公団も驚愕を隠せず、紆余曲折の末、助成金制度の形で財政負担に応じるようになりました。
 今や全国の高速道路通過自治体で、当たり前の如く受け取っている助成金の陰には、榎原革新市政の大きな力が存在したことを決して忘れてはなりません。

子ども達に対する熱い想いを市民とともに

 教育の分野に目を向けますと、保守市政時代の学校施設は、本当に貧弱で、近隣市から移ってきた教諭は、あまりのひどさに、子ども達にその貧弱さを嘆く始末でした。
 憲法26条の「子どもの教育を受ける権利」、教育基本法3条の「教育の機会均等の原則」を追求することを責務とする榎原市長は、全ての小中学校に体育館とプールを建設するだけでなく、学校経費への、PTA会費からの保護者負担を解消し、学校標準運営経費という制度を新設し、学校教育に必要な経費を標準化し、予算を確保していくという斬新な手法を取り入れました。
 また、就学援助制度の拡充や高校奨学金の新設もされ、教育予算の充実には目を見張るものがありました。
 今、財政健全化計画の名の下に一律に削減されようとしている、子ども達が無料で映画や演劇が観られる制度も、財政状況が困難だった1期目のこの時期に財政措置がされているのです。榎原さんの、子ども達に対する熱い想いが伝わってきます。

 このように本当に困難な財政状況、少数与党という厳しい情勢の中でも、少しでも市民生活が向上するようにと奮闘している榎原さんに対して、同和問題で、自分たちの意向に従わないので、なんとか辞めさせたいとする解同大阪府連などは、社会党に革新府市政から手を引くよう画策します。また、中央政治に於いては、社公民路線が敷かれ始める状況下、社会党が「亀岡のゴミ処分地」問題を口実に革新陣営から脱落し、当時水道事業管理者だった羽田孝義氏を2期目の対抗馬として擁立します。
 政党レベルでは共産党自社公民の一騎打ちという構図で、本当に厳しい選挙戦でしたが、「明るい会」構成員の死にものぐるいの奮闘により、520票の僅差で勝利をおさめることができました。
 黒田知事も自民候補、社公民候補に対して勝利をおさめています。

 3期目の対抗馬は偶然にも、またまた現職水道事業管理者である五石正則氏です。6党軍団と果敢に戦った黒田知事が、残念ながら僅差で破れたものの、吹田では8年間の榎原市政の輝かしい実績の前に、デマも通じず歯が立ちませんでした。
 また、保守層を中心に結成された「明日の吹田を考える会」は、市民本位の市政を貫いてきた「明るい会」推薦の榎原市長を全面的に応援することを決め、2万票の大差をつけて勝利する事ができました。

 「明るい会」が榎原さんと共に築きあげてきた革新市政の成果は、民主団体だけでなく、医師会、薬剤師会、婦人会、建設業界などにも、支持を広げて行きました。
 このような政治的力関係の変化の中、榎原市政は新たなステップを踏み始めます。従来はどちらかといえば、ソフト面の施策に重点が置かれてきましたが、国鉄吹田駅前再開発の完成を始め、総合福祉会館、新市民病院、メイシアター、少年自然の家、中の島グラウンドのナイター施設などなど、数え上げればキリがないほどの市民のための施設の建設・ハード面の整備を始めていきます。

国や府の悪政の防波堤として

 1983年4月、「明るい会」の政策大綱で「国や府の悪政の防波堤となる、革新市政の継続発展を実現するのか、それとも、政府に追随し福祉や教育を切り捨てる冷たい市政の復活を許すのか、すなわち進歩か反動か二つの道の対決」であると位置づけられ、争われた市長選挙。対立候補に7万6千票差という圧倒的勝利で4期目を迎えることができました。 4期目の選挙を前に、榎原さんが綴った決意表明の中に次の文章があります。
 「…最近、全世界に大きな波紋を広げつつある反核、軍縮を求める動きは、日本を最後の被爆国にしたいという私たちの願いに大きな力を与えてくれるものです。私は、恒久平和の尊さを訴え、核兵器廃絶、軍備縮小の運動に市民生活を守るという立場から力を尽くす考えです…」
 この決意は、当選するやいなやすぐに実行に移されました。非核平和都市宣言をその年に宣言し、市内各地に啓発モニュメントを設置、平和への願いを市内外に広く訴えたのでした。

 そして、1987年4月、吹田市政始まって以来の出来事が起こりました。榎原市長が、対立候補無し、いわゆる無風選挙で第5期目を迎えたのでした。どんな勢力も榎原市政には、とても太刀打ちできない、とまで言わせるような実績と成果を築いてきたことを忘れてはなりません。

岸田市政にバトンタッチ

 5期20年間にわたって、昼夜を問わず市民本位の市政を貫いて来られた榎原さんも、激務による、病魔におそわれ、ついに 、引退を決意され、1991年4月、42年間通い続けた吹田市役所を後にし、「市民本位の市政」のバトンを、長年榎原さんを陰になり、日向になりで支えてきた、岸田助役に託されました。

 同年4月、「明るい会」推薦の岸田さんが、市長に就任されました。こうして榎原革新市政5期20年の実績を引き継ぎ、市民本位の市政をすすめることを基本姿勢とする岸田市政が誕生したのです。
 榎原市政の下で、秘書課長や市長公室長、秘書長、助役と、一心同体で榎原さんと共に市長の公約実現に向けて努力されてきた岸田さんは、榎原市政の継承・発展を基本姿勢とし、「共創と共生」を新にスローガンとして掲げ、榎原さんとは、またひと味違った庶民的な人柄で市政運営を開始していきます。

全国に誇る市民本位の市政の実績

  • 乳幼児医療費の無料化
  • 高齢者の在宅福祉、コミニティセンター、老人保険施設や亥谷コミュニティセンターなど、福祉施策の推進
  • 学童保育や、保育所、学校保健室へのクーラー設置、保育時間の延長など
  • 全国的にセンター方式が叫ばれている中での、学校給食の自校調理方式化
  • 全国初の資源リサイクルセンターの設置と、ゴミ5種類分別など

 特に高齢者の介護ヘルパーの大幅増は、岸田市長が、時代を先読みする優れた能力を備えた人物であることを雄弁に物語る出来事でした。



 1995年、無投票で第2期岸田市政が発足します。 「力の弱い者の心がわかるように」というお母さんの教えは、市長になってから、ますます光り輝く施策として実を結んでいきます。無認可共同作業所への補助金、重度障害者入院時食事療養費の補助、福祉のまちづくり都市施設整備要綱の改正など、数え上げればキリがありません。

 榎原市政が誕生した時代は、とにかく保育所が不足していました。時代は変わり、岸田市政の保育施策の重点は、子どもたちを取り巻く状況が以前に比べ大きく変わってきている中、「子育て支援策」という、保護者にも目を向けたものに移っていきます。付随して保護者負担を少しでも解消すべく、国の補助金カットの中、保育料第3子の無料化、共同保育所への助成の増額などを実現していきます。

 「木を植えただけの市長と呼ばれてもかまわない」と、言ってはばからないほど緑や環境を守る施策にも力を入れ積極的に進めました。「環境条例」の制定、「みどりの保護、育成に関する条例」などを打ち出し、公園の整備も大きく前進しました。

 このように岸田市政も、榎原市政と遜色のないくらい市民の立場に立った市政運営を進めていきます。
 私たちが、榎原市政での20年間の様々な運動の展開の中で、育ち、鍛えられ、学習を積み重ねてきたように、岸田さんもまた同様に、榎原さんと苦楽を共にする中で、「市政の主人公は市民」であることを実感し、心のひだに深くしまいこまれていったのでしょう。そして、それは岸田さんだけに留まらず、職員一人ひとりにもその考え方はしみわたっていきました。
 市民本位の市政を産み、育て、支えていく運動は、単に市政を変えるに留まらず、人間をも成長させることのできる、壮大な意義を持っているのだということに市民は気がつきました。


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